百人一首大会~ちはやふる熱血スポ根編~
2016.01.19 NONE
本日はお正月ならではの遊び
百人一首大会を開催しました
百人一首といえば、なんだか古臭いイメージがありますが近年、
漫画家・末次由紀さんが描く百人一首を題材にした漫画「ちはやふる」が大ヒットし
この春には、広瀬すずさん主演で「ちはやふる」が映画化され
公開予定となっています
すでに漫画を通し、多くの若者を魅了している百人一首ですが
映画化ともなれば全国的に今年は百人一首旋風が吹き荒れるかもしれません!?
もちろん流行の最先端を突っ走るデイサービス和においても(?)
いち早く、レクリエーションに百人一首を取り入れて
盛大に百人一首大会を開催したのですが
「ちはやふる」同様、これは単なるかるた遊びではなく
まさにスポ根熱血ドラマとなっていました!
京都の公家さんが遊んでいたという雅やかなイメージなどどこにもなく
目をぎらぎら輝かせ
ただひたすら、とってとってとりまくっていきます!
真剣勝負です!
百人一首は単なるかるた遊びとは違って
読み手が読み上げる上の句に対し
上の句に付随した下の句を探さなくてはならないところが
面白いところであり、難しいところであります
ようするに、その歌全部を覚えておかないと
ゲームにならないのです
はたして皆さまが百人一首を覚えておられたかどうかは別としましても
勝負にかける情熱だけは熱く煮えたぎっていたような気がします!
今日は福岡地方に大雪が降り非常に寒い一日となりましたが
デイサービス和の室内は百人一首の熱気で
かえって暑すぎるぐらいでした
ダルマさん作り~はじめの一歩!~
2016.01.15 装飾粘土教室
今年も一年、良い年でありますように!
そんな願いを込めて、本日はデコ粘土教室で
ダルマさんを作りました
ダルマさんといえば中国禅宗の開祖とされるインド人仏教僧・
達磨大師が原型となっています
壁に向かって9年、座禅を組み、
手足が腐ってしまったという伝説があり、
ダルマさんに手足がないのは、そのためだといわれています
そんなさ中、子供の頃よく遊んだ「だるまさんがころんだ」といったゲームを
ふと思い出しました
調べてみると、この遊びってゲーム内容はほとんど変わらないようですが
地域によって呼び方が、大きく違い、
10文字という制約は守られているものの、
例えば、近畿地方では
「坊さんが、屁をこいた」
中でも京都では、坊さんが屁をこいたに続きがあり
「匂いだら臭かった」
和歌山では「兵隊さんが通る」
そして福岡では
「インド人の黒んぼ」といった今日ではありえない差別的な呼び方まであったそうです
驚くことに、この遊びは外国にもほぼ同じルールで存在し
お隣の韓国では
「むくげの花が咲きました」
中国では「私達はすべて木の人形」
フランスでは「1.2.3.太陽」
スペインでは「1.2.3.イギリスのチョコレート」と掛け声をかけ
遊んでいるようです
まさに世界規模の子供の遊びだったんですね
不思議に思うのは、どこが起源となり
世界中に広まっていったかということです
今日のインターネットの普及を待たなくとも
テレビをはじめとする映像文化を媒介に
伝わっていったと考えるのが普通なのかもしれませんが
伝播していったのはテレビはおろかラジオすら普及していなかった
大正時代頃だと考える説があります
とするとマスメディアの媒介は
新聞・雑誌もしくは小説の類だということになりますが
「だるまさんがころんだ」が紹介された文献って
本当にあるのがどうか…
もしくは人づてで世界を駆け巡り
伝播していった可能性もなきにしもあらず
結論としては、だるまさんがころんだって
意外と謎に包まれた遊びだったような気がします
今日では「だるまさんがころんだ」は
「だるまさんの一日」という遊びに変化をとげているようです
本来、「だるまさんがころんだ」と鬼が掛け声をかけ、振り向けば
子供たちは動作を止めなければなりません
しかし「だるまさんの一日」では
鬼が「だるまさんがお茶を飲んだ」といえば
子供たちはお茶を飲むジェスチャーをしなくてはならず
「だるまさんがころんだ」といえば
本当に転んだ真似をしなくてはならないそうです
この遊びもいったい誰が考えたのか知りませんが
子供って独創性がホントに豊かだと思わずにはいられません
しかしいくら地域によって呼び方が違い
時代とともに遊び方が変化しようとも
「はじめの一歩!」で始まる掛け声だけは
変わりがないということです
はじめの一歩~!
この掛け声には
なんだか胸をしめつけられるような響きがありますね
その掛け声とともに、みんな大人になっていったんですよね~
王貞治ベースボールミュージアム~昭和のお父さんの匂いがする~
2016.01.14 歩こう会
前回の続きです
マリノアシティー福岡でお昼ごはんを食べ、
次に向かったのが「ヤフオクドーム」でした。
目的は、プロ野球選手、そして監督として偉大な活躍をされた王貞治さんの
「王貞治ベースボールミュージアム」です。
どんな所か、わくわくします。
むかう途中に手が沢山見えてきました。
「なにかしら?」
「北大路欣也さん」「黒柳徹子さん」「仲代達矢さん」「武田鉄也さん」などなど
私達が良く知っている有名人の名前が書いてありました。
皆様、しばし目的地の事を忘れ
それらの有名人がさし出す手のレプリカに見入っておられます。
どれくらいあるのでしょう。
相当な数の手のレプリカが・・
「ぬくもりが伝わるホークスタウン」という主題で作られたようで
これらの手を「暖手」と呼んでいます。
ざっと210体くらいあるようです。
その中から王さんの手を発見!
「握ってみようかしら。」
照れながらそっと握られていました。
そして、いよいよ目的地「王貞治ベースボールミュージアム」へ入ります。
入口には巨人時代の王選手とホークス時代の王監督の
巨大なパネルが待ち受けています
年を取っても素敵な方ですね。
入口を抜けるとなぜかしら内川選手のお出迎え。
「何があるとかいな~」
スタッフそっちのけで皆さま、ずんずん進んで行かれます。
「待って下さ~い!」
やっと皆様に追いつくと、大きな大きな球場が目に飛び込んできました。
圧巻の景色に、「はぁ~広いねぇ。」と皆さま、
目を大きくひん剥いて、その風景を見入っておられました。
すごかね~
ここで野球がおこなわれとっとやね!
外野席を見下ろしながら通路沿いに、王さんにかかわる
展示物や写真が並んでいました。
昭和と平成をまたにかけ
日本のプロ野球を牽引されてきた王貞治さん
その一枚一枚の写真を見ていると
不思議と当時の私達の生活がにじみ出てくるようで
熱いものがこみ上げてきます
ヒーローというのが一部のファンのみならず
国民全体のヒーローでありつづけた時代だったんですね。
そして所々に王貞治さんの語録というのが貼られていました。
いい時もあるし、悪い時もあります。自分もまた、それで初心に戻れたりしましたね。
敵と戦う時間は短い。
自分との戦いこそが明暗を分ける
さらに学生時代からの賞状やトロフィーが沢山、展示されていました。
通路には、王さんがいっぱい
時間が経つのを忘れるくらい、見入ってしまいます
こちらは、89スタジオです。
王さんが大好きな「野球」について
体感、体験ができるエリアです!
へっぴり腰でピッチングチャレンジでボールを投げてみました。
スピードは42キロ・・
中学生の部活に入ってない女子レベルよりスピードが出ていないと思われます。
普通の女子中学生ソフトチームで60-70キロくらい出るのだそうです。
全国大会にでるチームで85-100キロくらいは出ています。
それに比べて私ときたら…
ちなみに80歳を超えている利用者さまに至っても49キロ!
負けました。
学生時代、長距離の県代表に選ばれていたというKさん
あんたに負けて、どげんすっとね!
と、私に勝って当たり前のような顔をされ
正直いってハラワタが煮えくり返りました。
リードチャレンジは、ピッチャーが投げてくる牽制球に反応して
1塁ベースに戻れるか否かを試すゲームです。
デイサービス和の不思議ちゃんこと職員Yさん、
結果はセーフ!でした。
こちらはまたまた私ですが
今度はバッティングの速度を計りました。
一振りするごとに、下半身の肉塊が
ぶよんぶよんとうごめき出し、
まるで腹踊りをしているようだと
皆さまに笑われてしまいました
ここではプロ野球選手が投げるボールの迫力を間近に体感することができるコーナーです。
ホークスのエースピッチャーである摂津投手をはじめ
王貞治さんが756本のホームラン世界記録を樹立された時の
対戦ピッチャーであった鈴木康二投手などの投球フォームの映像がでてきて
映像からボールがくりだされると、
実際にフォームベースに立っている私達のところへボールが飛んできます。
ひやぁぁぁ~
迫力満点でした!
こちらは王さんの実家であった中華料理屋が当時の雰囲気を残し
再現されていました
懐かしい昭和の匂いがします
暖簾をくぐると、古めかしい野球グランドに出ます。
そのぐるりには少年時代の王さんを
野球に導いた兄をはじめとする関係者の人たちの姿が並んでいます。
王さんは、2歳になるまで歩けないほどひ弱な子供だったそうです。
心配したお兄さんが、そんな王さんを強くしようと
野球のグラウンドに連れて行き、野球と出会わせます
王さんの野球人生は、まさにこの時からスタートします。
「貞治、いいところへ連れていってやろう。」
お兄さんが、そう言っています。
それから王さんの輝かしい野球人生がスタートします。
これは早稲田実業時代、投手として甲子園で全国優勝を成し遂げた時の横断幕です。
そして卒業後、巨人に入団
長嶋茂雄さんとともに巨人V9時代の立役者となって
巨人黄金時代を築き上げていきます
「巨人・大鵬・卵焼き」
それはこの当時、子供を含めた大衆に人気のあった代名詞として
流行した言葉です
時は、高度成長期の昭和40年代、
街のいたるところに、このような駄菓子屋が点在していて
そこが子供たちの社交場にもなっていました。
懐かしい路地の風景が再現されていました
遠い昔にタイムスリップした感覚に陥ります。
ここでも王さんは大活躍!
それにしてもこの路地の風景は
細部にわたって趣向をこらしているようでした
「気をつけよう 空巣・ちかん・ひったくり」
いつの時代も、痴漢っているのですね!
こちらは当時の茶の間。
当時の家庭にはテレビが一台しかなく
たいがいチャンネル権はお父さんが持っていたもので
お父さんが観る番組といえばプロ野球の巨人戦ばかり。
私としては「8時だよ全員集合」とか観たくてたまらなく
土曜の夜になるときまって
お父さんとチャンネルの奪い合いをしていたものです。
そんな父も、他界して
今では懐かしい思い出となって当時の記憶が蘇ってきます。。
ちゃぶ台におかれたビール、枝豆、煙草の匂い、
そしてテレビから流れる巨人戦、
そのどれをとっても
昭和の茶の間は、お父さんの匂いで一杯だったのかもしれません。
あの時代のお父さんの姿は
平成の世の中じゃ、もう観られなくなったのかなあ~
皆さまにおきましても、
懐かしい旦那様の姿を垣間見られていたのかもしてません
そしてその近くには
いつも王貞治さんの雄姿が
私たちの生活を勇気づけてくれていたのでしょう!
私は女性であり野球のことなど興味もなく、
何にもわかっていませんが
王貞治さんの存在感のおおきさに
改めて驚かされた今回の歩こう会の旅でした
猿田彦神社へ参拝、そしてマリノアシティー福岡ヘ
2016.01.14 歩こう会
本日はちょっと遠出をして
早良区藤崎にある猿田彦神社へ参拝に出かけました
猿田彦の神様といえば天孫降臨の神話の中で
天照に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天下った際、
道案内役として登場してきた神様です
それゆえ、道の神、旅人の神として崇められるようになります
出自は伊勢ですが、日本各地の街道筋にも道の神、旅人の神として祀られており
ここ福岡の猿田彦神社も、福岡の都心部から海岸沿いに佐賀県唐津を経由して
長崎へ向かう、いわゆる長崎街道の出発点に祀られたのが始まりとされています
旅人は、ここ猿田彦神社で旅の安全を祈願し、
西へ向かって旅立っていったのでしょう
とはいうものの、猿田彦と動物の猿とは何の関係もなく
そもそも猿田彦の容貌は、
鼻が異様に長く、まるで天狗のような奇怪な面妖だったと記載されており
そのことから、天狗の原型だったのではないかとの説があります
それなのに、ここ福岡の猿田彦神社の境内は
まるで猿を崇めているかのように猿の銅像が至る所に目につきます
それというのも中国から伝わって来た道教に基づく庚申(かのえさる)信仰が
もともとあった土着信仰や密教をはじめとする仏教、そして神道と
複雑に絡み合い、猿への信仰が始まったのではないかと考えられています
簡単に言うなら申と猿が同じだったことで猿への信仰が始まり
神道系の神様、猿田彦の名前がたまたま猿の名を冠していたことから
猿田彦が引っ張り出され、
猿とゆかりのある神様と思われるようになったのではないのでしょうか?
何はともあれ、この神社においては
いつのまにか猿田彦の本来の性質からかけ離れ、
猿を全面的に押し出す形で多くの人たちの信仰を集めています
「災難が去る(猿)」、そして幸福が訪れるといった願をかけ
この神社が参拝客に授与している猿面は
福岡市民に親しまれ
この猿面を玄関先に掲げる家は少なくありません
特に今年は猿年とあって猿田彦神社は例年になく大賑わい!
私達も、そんな理由をもって
今回、この神社の参拝計画をたてたわけでした
とは言っても、わざわざ那珂川の山の中から出てきた私達です
このまま帰るのも、もったいなく
目と鼻の先が博多湾に面する海だったので、
姪浜の先にあるマリノアシティ福岡に向かい
海を見ながら昼食をとることにしました
けっこう歩いたものだからお腹もペコペコです
皆さま、ぺろりとご飯を平らげます
食事がおわったら、海岸線を散歩しました
楽しい時間はあっという間に過ぎていきます
しかし今回の旅は、これで終わりません
お昼からはヤクオクドームへ向かいます!
つづく
羽子板飾りを作る~羽子板に込められた願い~
2016.01.12 折り紙教室
本日は折り紙教室を通じ
羽子板の飾りつけをおこないました
厚紙で模った羽子板に、折り紙で作った正月らしい作品を貼り付けていきます
だるまさん、招き猫、富士山、猿、梅の花、扇子‥‥等
艶やかな装飾がほどこされていきます
そもそも羽子板とはお正月の遊びの道具として一般に知られ
文献上で初見されるのが室町時代、
正月に羽根突きがおこなわれたという記述が残されています
それから徐々に羽子板に飾りものを施す風習が生まれ
女の子の初正月に、贈りものにする風習が定着していきます
誕生した赤ちゃんが、丈夫にすくすくと育っていくようにとの願いが込められ、
このような風習が定着していったとのことです
そもそも、その由来となっているのが羽根突きの羽根についている黒い玉にあります
黒い玉は「無患子」(むくろじ)といった樹木の種です
まさに、子が患わ無いといった無病息災の願いが
この樹木の種に込められていたのだということです
さらに羽根突きの羽根はトンボをイメージしています
トンボは病気を運ぶ蚊をはじめとする害虫を食べてくれる昆虫です
トンボをイメージすることにより、
子供を病気から守ろうといった願いが
この羽根にも込められていたようです
そもそも私たちが住む日本は「古事記」によると
秋津島と呼ばれていました
秋津とは、まさにトンボの古名で、
直訳すると、たくさんのトンボが飛び回る国とでもいうのでしょうか?
いわゆる害虫を食べてくれるトンボがたくさん飛び回ることにより
作物が豊かに実る国であってほしいとの願いが
そこには、込められていたのでしょう
そういった意味でとらえるならば
トンボって、かなり縁起の良い昆虫と考えられていたのですね
最近では田んぼも少なくなり、
田んぼの上を飛び回るトンボの姿自体、見かけることがなくなり
その代り、農薬がふんだんに撒かれるようになりました
そうしてお正月に羽子板で遊ぶ子供の姿も
遠い昔の記憶の断片にとどまっているのみ…
しかし無病息災といえば聞こえは良いですが
無病息災で育った結果が、このあられもない姿とあっては
これ以上、何も言えません
子供が生まれた時は、どの親だって
元気にスクスク育ってくれればそれで良いと願うものですが
子供の成長とともに欲が出てきて
少なからず、この手のアホには育ってほしいと望まないものです
それは羽根突きが始まった室町時代の親の気持ちも
同様だったと思います
親の期待って、子供にとっては
かなりの重荷なんですよね